気配と物音
家の中、外、どこにいても、自分の視界じゃないところから音がすると、心臓にくる。どきっ。どこからの音?だれの音?なんの音?一気に心拍数があがり、必死で耳に残った音を脳内にリバースし、音に込められた情報を解読する。脳細胞総動員だ。
そうしている間、当たり前だけど身動き一つできない。だって脳みそ全部使ってるから。まばたきすらできない。呼吸も止めている。それくらい脅かされる。戦争の映画などで、兵隊さんがひとり生き残って、なんとか隠れてるものの、周りは敵兵だらけで、見つからないかどうかの瀬戸際で必死に息を殺してる、あのかんじだ。
だいたいの音は、数十秒ほどのあいだに、原因をつきとめたり納得できたりして、安心して終わる。問題は解決のつかない得体の知れない音だった場合だ。音の発信源や音の提供者までは突き止められても、その音を発する理由がわからなかいとき。その音がなにから生じているかは見当がついても、なぜそれからそんな音が生じるのか理解不能な場合。なんの音かわかってはいても、不愉快な気持ち悪い音のとき。
そのような音には、気配が無いのだ。
それがこわい。
いや、無いということはないのだろう。あるにはあるのだろうけど、私の中の辞書に載ってないのだ。その気配について。世の中にはいろいろな価値観があるから、私の価値観なんてちっぽけな小石、砂粒みたいなもんではあるだろうけど。
そんな価値観をふりかざさせてもらえば、「気配」というのは「生きてる証拠」だと思っている。気配のない、というのは、生命感のない。ということになる。生きてないのに音がする。そこが理解できないみたいだ。生きてないのに音がするなんて、ゾンビか幽霊かじゃん!ぞぞぞぞぞ。みたいなところなんだろうか。
いつもこうやって、記事を書きながら自分を整理している。
気配に飢えているなあ。
気配って大切だと思います。
ここちよい気配に包まれているときの安堵感やしあわせな気分ったらないもの。
たとえば今降っている雨のひとつぶひとつぶだって、気配に満ち溢れた物音なのです。開けた窓から入るでも入らないでもない、しずかなおしゃべり、しずかな足音。雨はそういう気配を誰よりも知ってて、そうっとそうっと、私たちを包んでくれている。ミルクティーのように、毛布のように、赤ん坊の涙の痕のように。そうして、ゾンビの音も、切り立った私の心も、柔らかいものに中和してくれるのだ。
気配はいのちだ。
いのちは繋がっている。
繰り返し、繰り返し。
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